平安宮には天皇の住まいである内裏のほかに、
朝堂院や豊楽院などの宮殿建築や、
二官八省などの国家政治を行う重要な役所が並んでいました 。
丸太町通七本松を西に約50メートル行った北側に中央図書館と京都アスニーがあります。
この場所は平安宮の時代、「造酒司」という宮内省に所属した官庁で、
儀式や饗宴に使う酒や酢などを製造するところでした。
京都アスニーの玄関前の地面にこのようなものが十数個描かれています。
これは一体何でしょうか?サイコロの一の目???
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓答え:倉庫の柱の跡
1977年から発掘調査が行われ、
平安時代前期の建物跡として
高床式倉庫も見つかりました。
実際に掘って出てきたので「物的証拠」です。
これは、昔の図や絵、文献などと一致したそうです。
この倉庫は材料となるお米や作られたお酒などを保管するためのものでした。
この十数の柱跡の模様、結構「密」に描かれているのですが、
すなわち柱も「密」だったわけで、重い物を置いても大丈夫なようにと、このような造りになっていたということです。
そばには石碑と案内板があります。
もう一つクイズです。
お酒の材料のお米はどこ産?地方から?
答え:地方から来るのは布などで、お米は近隣から来ていたそうです。
看板からの抜粋:
造酒司负责酿造朝廷宫廷宴会,祭祀仪式等使用的酒和醋等。
迄今为止,虽然在平安宫遗迹上进行了为数众多的调查,
但系统地发掘到建筑物遗迹的例子却极为罕见,
因此象该仓库遗迹一样,作为平安京创建时期的建筑物遗迹能够在保存良好的状态下,发掘出来是非常难能可贵的,
此外,因其对于平安宫的复原是十分重要的遗迹,故而被指定为京都的史迹。
訳文:
造酒司は、宮中の宴席や儀式に用いる酒や酢の醸造を担当していました。
平安宮の遺跡は多くの調査が行われていますが、建物の遺跡が系統的に発掘されることは珍しく、
この倉の遺跡のように平安京創建時の建物の遺跡が良好な状態で発掘されることは奇特で貴重であり、
また平安宮の復元に重要な意味を持つことから、京都府の史跡に指定されています。
新型コロナウィルス感染者が減少し
京都では、営業時間の短縮と酒類提供制限の要請が10月22日、約半年ぶりに解除されました。
この数日京都市内の繁華街は夜遅くまで会食を楽しむ人たちでにぎわっているとのことです。
今までガマンだったので、みんなとご馳走食べに行きたいですよね〜。
平安宮の時代でも同じように楽しく会食していたのでしょうね。
丸太町七本松の交差点から南東へ歩いて2分ほどのところに「豊楽院跡」があります。
「豊楽院」は、いわゆる迎賓館、宴会場でした。
道を挟んだ南側には「豊楽殿跡」の碑と案内板があります。
「豊楽院」の正殿が「豊楽殿」
近年発掘調査により、この一角に土が盛り上がったところがみつかり、
そこは当時の天皇が宴会に列席の際に使った玉座の基壇の跡だと分かったそうです。
また、「豊楽殿」は平安神宮の社殿のモデルになった建物です。
今の平安神宮の社殿は屋根瓦全体が緑色ですが、
発掘調査で見つかった「豊楽殿」の瓦は緑の割合がそれほど多くはなく、
当時の「豊楽殿」の屋根は今の平安神宮ほど緑ではなかったそうです。
「豊楽殿跡」の案内板には、QRコードがあり、Uni-Voiceというアプリを使って読み込むと、文字と音声の説明が読んだり聞けたりします。
日本語、英語、そして中国語もあるので、試してみました。
これはその中の一文です。
‟丰乐院则是在举办国家仪式后设宴的地方,于9世纪初期建造完成。”
Fēnglè yuàn zéshì zài jǔbàn guójiā yíshì hòu shèyàn de dìfang,yú 9 shìjì chūqī jiànzào wánchéng.
京都市内、下立売通の一筋北は、新出水通です。
千本通と、この新出水通の交わる交差点を東に100メートル行くと
木造平屋の建物が並んでいます。
このあたりが、源氏物語の舞台にもなった、「弘徽殿」があったところです。
弘徽殿、天皇がお住まいの御所内にある後宮七殿のうちのひとつ。
天皇の住居である清涼殿の近くにあったので、
皇后や中宮、あるいは権力を持った女御が住まいとして使っていました。
弘徽殿,为天皇御所内的后宫七殿之一。
Hóng huī diàn,wéi tiānhuáng yù suǒ nèi de hòugōng qī diàn zhīyī.
由于位于天皇所居的清凉殿很近,
Yóuyú wèiyú tiānhuáng suǒ jū de Qīngliáng diàn hěn jìn,
因此多作为皇后、中宫或有势力的女御所居之宫室。
yīncǐ duō zuòwéi huánghòu、zhōnggōng huò yǒu shìlì de nǚ yù suǒ jū zhī gōngshì。
案内板があります。
この辺りは平安京の内裏でした。
内裏とは、天皇の私的区域のことで、御所、禁裏、大内などとも呼ばれます。
平安京の内裏は、内郭と外郭の二重構造で、
内郭はさらに南半部と北半部に分けられ、
南半部は儀式を行う「ハレ」の場、
「北」半部は天皇 とその家族の私的な生活空間「ケ」の場で、「後宮」と 呼ばれました。
確かに新出水通りの
「北側」に、
写真の案内板がありました。
弘徽殿は、すなわちその「後宮」で、位の高い方が住んでいたので、「源氏物語」の舞台だったわけです。
ここでクイズです。この平安皇族のお住まいだった場所、今は何でしょう?
答え:「民泊」として使われているそうです。外国人観光客も泊まるのですね〜。
794年、桓武天皇によって都が平安京に定められました。
天皇が即位の儀式や政治を執り行うのが大極殿です。
平安宮の正門——朱雀門をぬけると、応天門の後ろにある朝堂院が見えます。
その正殿が大極殿です。
東西に九間(一間は約1.818m)、南北に2間の大きさです。
屋根は緑の釉薬をかけた瓦のデザインで、
周囲には朱色の欄干があり、
平安宮で最も大きな建物で、
レンガの床のメインホールの中央には、玉座が置かれていました。
穿过平安宫的正门——朱雀门,就可看到坐落在应天门背后的朝堂院,该正殿为大极殿。
Chuānguò Píng'ān gōng de zhèngmén —— zhūquè mén,jiù kě kàndào zuòluò zài Yìng tiānmén bèihòu de Cháo táng yuàn,gāi zhèngdiàn wéi Dà jí diàn.
其规模为东西长为九间(一间约1.818米),南北宽二间。
Qí guīmó wéi dōngxi cháng wéi jiǔ jiān (yì jiān yuē 1.818 mǐ),nánběi kuān'èr jiān.
屋顶有绿釉瓦设计为绿色,
Wūdǐng yǒu lǜ yòu wǎ shèjì wéi lǜsè
四周还围绕着朱红栏杆,
sìzhōu hái wéirào zhe zhūhóng lángān
该正殿为平安宫最大的建筑。
gāi zhèngdiàn wéi Píng'ān gōng zuìdà de jiànzhù
砖铺地面的正堂中央摆放着天皇御座。
Zhuān pū dìmiàn de zhèngtáng zhōngyāng bǎifàng zhe tiānhuáng yù zuò.
千本丸太町の交差点を北へ100メートルほど行き、千本通の千本丸太町バス停から西に少し入ったところに、
「大極殿遺跡」の石碑があります。
平安京遷都1100年の1895年に、
東寺や堀川を定点として計算したり、陸軍参謀機密の地図や昔の指図をもとに大極殿の位置を見つけ、
「大極殿は、ここだった!」と石碑が建てられました。
この碑の左右両側には築地(柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺 (ふ) いた塀。古くは、土だけをつき固めた土塀)だったという場所に、丸い短い柱が二本と植え込みがあります。
しかしながら後の調査で、実際はここではなく、「大極殿」は
千本丸太町交差点北西側の歩道上だということがわかりました。
この位置に「玉座」があったそうです。
今は当然見る影もありませんが、アスファルトをめくるとすぐに、昔のものが出てくるそうです。
この下に、どんなものが埋まっているのか、平安時代の人々の暮らしを想像すると面白いですね。
京都市平安創生館は、京都アスニー1階にあります。
平安時代の暮らしと文化を体験できるコーナーがあります。
平安時代の衣装、袿(うちき・女)・狩衣(かりぎぬ・男)(平安貴族の普段着)が自由に着ることができます。
残念ながら、今はコロナ禍で体験コーナーの利用を休止中ですが、「平安時代の人はこんな服を着ていたのか」と見ていて楽しいです。
さらに、平安貴族の遊び道具もあります。
【貝合わせ】
【偏継(へんつぎ)】 偏(へん)と旁(つくり)で漢字を作ります。
【盤双六(ばんすごろく)】
「双六すごろく」は中国語でも‟双六”
‟双陆 (古代棋盘游戏)”とも言うようです。
説明:
古代博戏用具同时也是一种棋盘游戏。
Gǔdài bó xì yòngjù tóngshí yě shì yì zhǒng qípán yóuxì.
棋子的移动以掷骰子的点数决定,首位把所有棋子移离棋盘的玩者可获得胜利。
Qízǐ de yídòng yǐ zhì tóuzi de diǎn shù juédìng,shǒuwèi bǎ suǒyǒu qízǐ yílí qípán de wán zhě kě huòdé shènglì.
古代の勝ち負けをかけるゲームの道具、またボードゲームでもあります。
駒の動きはふったサイコロの目の数で決まり、先に盤からすべての駒を取り除いたプレイヤーが勝ちとなります。
双六は中国唐の時代に伝わったそうです。
その唐の時代の「楊貴妃」が、三千人の后妃がいる中で、玄宗皇帝に好かれたのは、
中国四大美女に挙げられるほどのすご〜〜い美人だったのに加えて、
玄宗皇帝と趣味があったから。
二人とも「双六」がとても好き。
毎日やっていたので、家来もやりだし、大流行になったそうです。
上の写真の【盤双六(ばんすごろく)】を見て、日本の平安貴族から、楊貴妃まで話がふくらみました。