今日から11月です。
時が経つのは本当に早いです。
日子过得真快;Rìzi guò de zhēn kuài
时光过得快;shíguāng guò de kuài
光阴似箭 ;guāng yīn sì jiàn
京都も葉が色づき始めました。
これは先日東福寺で撮影しました。

紅葉で有名は東福寺の通天橋

今はまだこんな感じです。

本格的な紅葉シーズンが待ち遠しいです。
「ハロウィーン」は中国語で、‟万圣节 Wànshèngjié ”と言いますね。
日本語の漢字では「万聖節(ばんせいせつ)」
全聖人を記念するキリスト教の祝日で、〈諸聖人の祝日〉とも。西方では11月1日。
ハロウィーンはこの前夜祭です。

万圣节是西方的传统节日,每年的11月1日举行。
Wànshèngjié shì Xīfāng de chuántǒng jiérì,měinián de 11 yuè 1 rì jǔxíng.
每当万圣节的前一天晚上,10月31日是这个节日最热闹的时刻。
Měidāng Wànshèngjié de qián yì tiān wǎnshang,10 yuè 31 rì shì zhège jiérì zuì rènao de shíkè.
在这一天,很多西方国家的群众都会装扮成魔鬼和巫婆的模样,甚至还有撒但的模样。
Zài zhe yì tiān,hěn duō xīfāng guójiā de qúnzhòng dōu huì zhuāngbàn chéng móguǐ hé wūpó de múyàng,shènzhì háiyǒu Sādàn de múyàng
訳文:
ハロウィーンは、毎年11月1日に行われる欧米の伝統的な祝日で、
ハロウィーンの前夜である10月31日が最もにぎやかです。
この日、欧米諸国では、悪魔や魔女、さらにはサタンに扮する人が多くいます。
不给糖,就捣蛋!“trick or treat”
到了万圣节前夜,
Dào le Wànshèngjié qiányè,
孩子们会提着南瓜灯,穿着各式各样稀奇古怪的服装,
háizimen huìtí zhe nánguādēng,chuānzhuó gèshì gèyàng xīqí gǔguài de fúzhuāng,
挨家挨户地去索要糖果,不停地说:“trick or treat”(“不给糖,就捣蛋”),
āi jiā āi hù dì qù suǒyào tángguǒ,bùtíng de shuō:“trick or treat” (“bù gěi táng,jiù dǎodàn”),
要是你不肯给糖果的话,孩子们就会很生气,用各种恶作剧去惩罚你,
yào shì nǐ bù kěn gěi tángguǒ de huà,háizimen jiù huì hěn shēngqì,yòng gèzhǒng èzuòjù qù chéngfá nǐ,
例如:把垃圾倒在你家里等,直到你肯给他们糖果为止。
lìrú:bǎ lājī dǎo zài nǐ jiālǐ děng,zhídào nǐ kěn gěi tāmen tángguǒ wéizhǐ.
訳文:
ハロウィーンの前夜、子どもたちはカボチャのランタンを提げ、さまざまな奇妙な衣装を身につけて、
お菓子をもらいに一軒一軒を回り、「トリック・オア・トリート」と何度も言います。
お菓子をあげないと、子どもたちは怒って、お菓子をくれるまで、例えば家にゴミをひっくり返すなど、いろいろないたずらをして罰を与えるのです。
捣蛋[dǎodàn] → 言いがかりをつける、からむ、いたずらをする
例文:
调皮tiáopí捣蛋 / 文句を言ったりけちをつけたりする、(子供が)いたずらをする
捣蛋鬼 dǎodànguǐ/ いたずら坊主
一昔前は「ハロウィーン」って何?でしたが、今ではすっかり定着した感がありますね。
中国でも、若い世代を中心に広まっているそうです。

↑ ↑
京野菜の「堀川ごぼう」をご存知ですか?
堀川ごぼうは直径6 - 9cm、とても太いのが特徴です。
太いから硬いかと思ったら、柔らかくてびっくり! 美味しいです
11月上旬から12月下旬にかけて収穫するので、まもなく旬を迎えます。
この堀川ごぼうは、もともとどこに生えたでしょう?
答え:ゴミ捨て場
ええ?どういうこと?
平安宮の多くの建物が大火事で焼けてしまい、もう再建されませんでした。
そして、この辺りはだんだん廃れていってしまい、鎌倉時代には一面野原になって「内野」と呼ばれました。
その後、豊臣秀吉がここに関白の公邸として「聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)」を造りました。
聚楽第は堀と石垣で囲まれ、やぐらがあるなど城郭の様式を取り入れた邸宅でした。
天皇をお迎えする行幸と、外交使節との会う場所はこの聚楽第でした。
秀吉は天下統一を果たした翌年の1591年に、関白職と聚楽第を甥の秀次に譲り渡しました。
しかしその後、秀吉と秀次の関係が悪化!
秀吉は秀次を高野山で切腹させ、聚楽第をこわしてしまったのです。
聚楽第が壊されたあと、その堀はゴミ捨て場となりました。(地面より掘ってあるからゴミが捨てやすかったのか)
そしてこの聚楽第のお堀だった所は、有機物に富んだ良い土壌になりました。
食べ残しのごぼうが捨てられていたものが、偶然めっちゃ大きく成長し「デカデカ」になったのがきっかけとなり、堀川ごぼうの栽培が始まったと言われています。
「ごぼう」は、中国語で、‟牛蒡 niúbàng”
作蔬菜栽培时,选择土层深厚、疏松的沙土或壤土,土壤有机质含量丰富,pH值6.5〜7.5为宜。
Zuò shūcài zāipéi shí,xuǎnzé tǔcéng shēnhòu、shūsōng de shātǔ huò rǎngtǔ,tǔrǎng yǒujīzhì hánliàng fēngfù,pH zhí 6.5 ~ 7.5 wéi yí。
訳文:
野菜として栽培するには、有機物が豊富でpH6.5〜7.5の、深くて柔らかい砂質やローム質の土壌を選びます。
堀川ごぼう、近所のスーパーであまり見かけません。
見つけると、うれしくてすぐ買います。
お値段は普通のごぼうの数倍しますが・・・・・・。
でも、実際に食べておいしいですし、これって400年前からある野菜と思って食べると面白いですよ。
京都アスニーの玄関前には「造酒司跡」の石碑と説明が書いてある看板があります。
その向かって左側の壁にこんなタイルが貼ってあります。

この丸いのはいったい何???
答え:平安宮を代表する瓦の文様
この瓦、「軒丸瓦(のきまるかわら)」といって、のき先など屋根の縁をかざる瓦です。
例えばお寺などで見かける、この写真の一番下に写っているような丸い瓦。


そしてこのタイル、よ〜く見ると真ん中に「栗」の文字が!
なぜ?
栗の木を薪にして焼いたから?
作った人の名前?
作った人が栗が好きだった?
答え:「栗栖野」というところで作ったから「栗」の字が入れてあるのです!
「栗栖野」は、京都の今でいう左京区の岩倉にあり、当時は良い土と良い薪になる木がたくさんあって、焼き物を作るのに適していたそうです。
焼き物と言えば、清水焼!と思いますが、それだけではなかったのですね。
平安宮で出土した軒丸瓦の実物が、京都アスニーの玄関を入ったすぐ左のケースに展示されています。

京都アスニー玄関前の「造酒司」の倉庫の柱の跡もそうですが、
京都アスニーを訪れた人になんとか平安宮のことを知ってもらおうと、
外の壁に、この瓦の文様の装飾タイルを貼りつけたそうです。
また、京都アスニーが40年前にオープンしたときにこの装飾タイルが「記念品」の引き出物になったとのことです。
かわら【瓦】 は中国語で、‟瓦wǎ”
漢字は一緒ですね。
例文:
瓦をふく|铺pū瓦;瓦wà瓦;上瓦.
瓦ぶきの家|瓦房;瓦顶的房子
平安宮がさらに身近に感じました。
私も家の下を掘ったら「栗」の瓦が出てこないかな・・・・・・
平安宮には天皇の住まいである内裏のほかに、
朝堂院や豊楽院などの宮殿建築や、
二官八省などの国家政治を行う重要な役所が並んでいました 。
丸太町通七本松を西に約50メートル行った北側に中央図書館と京都アスニーがあります。
この場所は平安宮の時代、「造酒司」という宮内省に所属した官庁で、
儀式や饗宴に使う酒や酢などを製造するところでした。
京都アスニーの玄関前の地面にこのようなものが十数個描かれています。
これは一体何でしょうか?サイコロの一の目???
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答え:倉庫の柱の跡
1977年から発掘調査が行われ、
平安時代前期の建物跡として
高床式倉庫も見つかりました。
実際に掘って出てきたので「物的証拠」です。
これは、昔の図や絵、文献などと一致したそうです。
この倉庫は材料となるお米や作られたお酒などを保管するためのものでした。
この十数の柱跡の模様、結構「密」に描かれているのですが、
すなわち柱も「密」だったわけで、重い物を置いても大丈夫なようにと、このような造りになっていたということです。
そばには石碑と案内板があります。

もう一つクイズです。
お酒の材料のお米はどこ産?地方から?
答え:地方から来るのは布などで、お米は近隣から来ていたそうです。
看板からの抜粋:
造酒司负责酿造朝廷宫廷宴会,祭祀仪式等使用的酒和醋等。
迄今为止,虽然在平安宫遗迹上进行了为数众多的调查,
但系统地发掘到建筑物遗迹的例子却极为罕见,
因此象该仓库遗迹一样,作为平安京创建时期的建筑物遗迹能够在保存良好的状态下,发掘出来是非常难能可贵的,
此外,因其对于平安宫的复原是十分重要的遗迹,故而被指定为京都的史迹。
訳文:
造酒司は、宮中の宴席や儀式に用いる酒や酢の醸造を担当していました。
平安宮の遺跡は多くの調査が行われていますが、建物の遺跡が系統的に発掘されることは珍しく、
この倉の遺跡のように平安京創建時の建物の遺跡が良好な状態で発掘されることは奇特で貴重であり、
また平安宮の復元に重要な意味を持つことから、京都府の史跡に指定されています。