「さくらの日」
京都地方気象台は先日3月24日、 京都でさくらが開花したと発表しました。
例年に比べて2日早く、去年に比べて8日遅い開花だそうです。
そして今日3月27日は「さくらの日」
日本さくらの会が制定した記念日で、
3×9(さくら)=27の語呂合せから、3月27日が「さくらの日」となったとか。
季節を表す七十二候で言えば、ちょうど昨日から『桜始開(さくらはじめてひらく)』(桜の花が咲き始めるという意味)に当たります。

さくらは咲いてから散るまで、わずか7日間。そのため、「花七日」とも呼ばれます。
中国語では↓↓
樱花自开花至花残只有七天,因而也有称作‟樱花七日”的说法。
「花七日」(はななぬか)、盛りの短くはかないことのたとえですね。
京都にはさくらのきれいなところがいっぱい。
散らないうちに春を感じにお出かけを。
どうぞコロナ感染対策は十分に!
帷子ノ辻の由来
京都にはなかなか読めない地名がありますが、「帷子ノ辻」もそのひとつです。
読みかたは、「かたびらのつじ」

京福電鉄(通称・嵐電)の駅に「帷子ノ辻」という駅があります。
この近くに大映の京都撮影所や、現在も「大映通商店街」があり、
この大映通と三条通が交わる辺りに、この「帷子ノ辻」駅があります。
「帷子」とは、夏の着物の一種ですが、地名の由来についてどんな物語があるのでしょうか・・・
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ)は、仏教の信仰が厚く、多くの功績がありました。
この皇后、伝説によると、絶世の美女!
修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほど。
こうした状況に皇后は、一体どうすれば、仏教の教えである『諸行無常』の真理、「この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い」ということを、人々に告げられるかずっと考えていました。
それならば自らの身をもってそれを告げようと、
自分が死んだあと、亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てて下さいと遺言しました。
そして皇后の送葬の時、棺を覆った帷子(絹または麻糸で織った夏の着物の一種)が、この辻のあたりで風によって飛ばされ舞い落ち、皇后の遺体はこの辻に遺棄されました。
遺体は日に日に腐り、かつての絶世の美女も醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てました。
人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだといいます。
皇后の遺体が置かれた場所が、すなわち「帷子辻」と呼ばれた場所だということです。
中国語で要約すると↓↓
平安时代,一个信奉佛教的美貌皇后,为了唤醒世人,宣扬“世事无常”的佛法,留下遗言说,自己死后不要埋葬,而要抛弃在十字路口,就这样被野兽和乌鸦啃噬。皇后尸骨被放置的地方,后来被称作——帷子辻。
点心の由来
中華料理の軽食、「点心」、おいしいですね。
そもそも‟点心 diǎnxin ”とは
①]間食として食べる物:菓子・ケーキなど
②軽食(麺類など)
③デザートまたは料理の中間に出される軽い箸休めに相当するもの

「点」は、中国語で、「少し、少量」
「心」は、「感情.気持ち」という意味を表し、
点心は、その字のとおり読むと、「少しの気持ち」
すなわち、「わずかながら感謝の気持ち」という意味に解すことができます。
伝説によると、東晋の時代にある名将が、兵士たちが日夜戦場で戦い、勇敢に敵を倒し、戦果を上げる姿に感動し、
「点点心意」(わずかながら感謝の気持ち)を込めて、みんなの好きなおいしいお菓子を焼いて前線に送り、兵士たちをねぎらうように命じました。
それ以来、「点心」という呼び名が広まり、現在に至っています。
中国語では↓↓
相传东晋时期一大将军,见到战士们日夜血战沙场,英勇杀敌,屡建战功,甚为感动,
随即传令烘制民间喜爱的美味糕饼,派人送往前线,慰劳将士,以表“点点心意”。自此以后,“点心”的名字便传开了,并一直延用。
東晋とは4世紀の初めに建てられた王朝ですから、随分前から「点心」があったのですね。
それにしても、やさしいええ上司やなあ~~
創作「水ようかん」
冷蔵庫に、こしあんがあったので
水ようかんを作りました。
寒天を一晩水に浸けて戻して作るのはちょっと面倒・・・
簡単にゼラチンを入れてみました。
でもゼラチンの量が少なくてあまり固まらず、包丁で切ることができませんでした。
それならばとスプーンですくってガラス容器に入れて、上にくるみを飾りました。
するとちょっとおしゃれにできました。

砂糖は全く加えずあんの甘さだけで
ちょうど程よい甘さ加減になりました。
「ようかん」は漢字で「羊羹」と書きますね。
羊羹の元々の意味は・・・
羊羹(ようかん)は中国発祥で、羊肉を煮こんだスープを、冷やしておかずにしたのが始まりです。
その後、禅宗とともに日本に伝わり、僧侶は肉を食べなかったため、小豆や小麦粉や葛粉を混ぜて蒸したことから、羊羹は日本では次第に豆類を使ったゼリー状の食べ物に進化していきました。
中国語では↓↓
羊羹起源自中国,最早是用羊肉来熬制的羹,冷却成冻以佐餐。
其后随禅宗传至日本,由于僧人不食肉,于是便用红豆与面粉或者葛粉混合后蒸制,故羊羹在日本慢慢演化成为一种以豆类制成的果冻状食品。
羊羹の「羹」は、中国語でも、とろりとした濃いスープのことです。
「羊の濃いスープ」、羊羹で元々の呼び名がそのまま残っているのはおもしろいですね。
「太秦(うずまさ)」の由来

京都には簡単に読めない地名が多々ありますが、「太秦(うずまさ)」もその一つ。
平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録がありますが、
これはその当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が書かれている氏族名鑑です。
その中の渡来および帰化系氏族のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、
中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王という人が、仲哀天皇の時代に一族を連れてやってきて、
また融通王という人が応神天皇の時代に、秦氏を引率してやってきて帰化しました。
高度な文明を持つ渡来人は、度重なる国内の戦争や文化交流の広がりによって日本に移住することが多く、農耕技術などの農耕文明、土木建築技術、土器焼成、鉄鍛造、機織りなどの技術を伝えました。
渡来人通常是因国内战争频繁或随文化交流传播而移居日本,这些拥有高度文明的渡来人传入诸如农耕技术、土木建筑技术,以及烧制陶器、锻铁、纺织等农业文明。
その後秦の民はばらばらに散らばっていて、こき使われていました。
そんな状況を、秦酒公(はたのさけきみ)が嘆いて、天皇に訴えたところ、
天皇は、訴えを聞き入れて「秦の民は秦酒公のところに集まれ~」と詔を出したのです。
秦公酒はたいそう喜んで、感謝の気持ちを表し、絹織物をうず高く積んで天皇に献上しました。
天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かだとおっしゃって
その時に「波多(ハダ)」の姓を賜ったとされています。
献上された絹織物がうず高く積まれたので、
「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜り、後に「太秦」の字をあてたということです。
また、漢字については聖徳太子の「太」と秦氏の「秦」をくっつけたという説もあるそうです。
遠い昔の話が、今も地名として残っていて、この地でそんなことがあったのかと当時の人々に想いを馳せると、歴史の息吹を感じておもしろいですね。